01


決して、月の無い夜は外を出歩いたりしては駄目。
人に会うなんてもっての外。絶対にこれだけは守って。
ーー私の愛しいアルシウス。

幼い頃、何度も何度も繰り返し聞かせられた言葉。
それは自身の立ち位置からくる言葉だと思っていた。
トワイネル王国トワイネル国王陛下の側室が一人、ユリス。
その人が俺の母であり、心を病んでしまった人。
ふとした瞬間、正気に返ることのある母は俺の幼い身体を強く抱きしめながらそう何度も耳元で同じ言葉を繰り返した。

【紅魔の誘い】

赤い絨毯の敷かれた荘厳な玉座の間。
その玉座を仰ぐ位置で片膝を付き、頭を垂れて国王陛下からの言葉を待つ。

「面を上げよ」

頭上から降り注いだ重々しい声音に、礼を失さぬよう細心の注意を払ってうやうやしく顔を上げた。視線の先の玉座にはトワイネル王国現国王陛下、ファンバイト=トワイネル。齢五十四。その隣には当然の如く正妃である国王陛下の妃が座り、一歩後ろの控えた位置にこの国の第一位王位継承権を持つ第一王子、ファスト=トワイネル、御年二十歳、が立っていた。その二人の視線は分かり易く侮蔑する様にこちらを見下していた。
また玉座へと続く階段の両脇には腰に帯剣した国王直属の近衛隊が警備に付いていた。

「第四騎士団隊長アルス。お主には新たな任務についてもらう」

「はっ。今度はどちらに赴けばよろしいのでしょうか?」

「うむ。お主には…ヴェルト砦へ行ってもらう」

『ヴェルト砦』とは大国トワイネルと比翼を為す隣国の国、シュリエス皇国との国境に築かれた砦のことだ。
両国はここ数十年冷戦状態にあり、このヴェルト砦が実質の最前線となっていた。それ故に小競り合い等が頻発している場所でもある。
両国共に大規模な戦争で国費や国民を失うのは馬鹿馬鹿しいと考えてはいるが、隙あらば領土を拡大したいという野心がこの小競り合いの原因だとも言われている。
しかし、ただの小競り合いとはいえ、剣を交えるということは少なからず死傷者も発生するということである。なのでトワイネル国内に数ある砦の中でもヴェルト砦への赴任は危険が伴い、ヴェルト砦へ向かうことは死地へと向かうことと同じ意味で捉えられていた。それでもヴェルト砦への赴任を希望する者は、自分の腕に自信がある者か、自国を守ろうと強い信念を抱いている者か。はたまた罪を犯し、送致された者か。

「…承知致しました」

左胸に手を添え、ファンバイトに騎士の礼を取ったアルスは先に述べたどの者でもない。
一度瞼を閉じたアルスは伏せた瞼を持ち上げると鋭い紅茶色の瞳を玉座に向けて、
「一つよろしいでしょうか」と、己の発言権を求めた。
だが、アルスの発言を制する様にファンバイトが先に口を開く。

「先月と病状は変わらん。お主の母はお前にまでうつしてはいかんと頑なに面会を拒絶しておる」

「…そうですか」

「こちらも手を尽くしておる」

「いえ、…感謝致します」

ファンバイトとアルスの話が終わったのを見計らってか、同席していた正妃が口を開く。

「お前は安心して砦へ向かうが良い。お前の母は正妃であるわらわが責任を持って面倒見てやろうぞ。…これからもずっとな」

パッと右手に持った扇を開いて口元を隠すと、正妃はその裏で艶然と微笑む。
その後ろで控えていた第一王子ファストも口元を緩めて頷く。
アルスは冷静な表情を保ったまま唇だけで笑みを形作った。

「それはお心強い」

正妃からの視線を切るとアルスは再びファンバイトに向けて頭を垂れる。

「それでは陛下。準備が御座いますので御前失礼させて頂きます」

ファンバイトからの許しを得て立ち上がり、踵を返したアルスは隙の無い身のこなしで玉座の間を出て行った。

ファンバイトが玉座から立ち上がる。それに倣う様に正妃も席を立ち、その後をファストが続く。近衛がアルスが出て行った扉とは別の王族専用の扉を静かに開く。正妃は扉に向かって歩きながら浮かべていた笑みを消すとアルスがいた階下を忌々しそうに睨み付け、パチリと開いていた扇を閉じた。

「最期まで生意気な奴ね」

「ですが、これでもう会うことはないでしょう。いくら武が優れていようとアレの行く先は死地です」

憤る正妃にファストがひっそりと笑う様に囁く。

「そうね…。これで貴方の地位を脅かす者は居なくなったわ」

「そうです、母上。ようやく正当な形を取り戻したのです」

不穏な気配を滲ませた母子の会話を背にファンバイトは沈黙を貫き、ただ黙々と執務室にその足を進めた。



玉座の間を出たアルスは陛下からの勅命を受けて、第四騎士団にあてがわれている騎士宿舎へと戻って来ていた。だが、その宿舎は陛下の近衛を務める第一騎士団や王都防衛が任務の第二騎士団とは見るからに扱いの違うやや寂れた感のある兵舎であった。場所も王城のすぐ側では無く、少しばかり王城から外れた西の森近くに建てられていた。

「隊長!お帰りなさいませ」

アルスが朝早くから王城へと呼ばれたと知った副隊長や隊員達が心配顔で兵舎の前でアルスの帰りを待ち構えていた。その姿にアルスの無愛想だった表情がするりと崩れる。

「何だ、お前達。外で待ってたのか。こんな所で油を売ってる暇があるなら訓練でもしていろ」

「そういうわけにもいきませんて。我らが隊長殿が呼び出されたのですよ」

「そうです!今度はどんな難題を押し付けられてきたんですか」

「奴らは俺等の事、捨て駒としか思ってねぇからな」

「隊長に万が一の事があれば、俺らも黙っちゃいませんぜ!」

事実、第四騎士団の面々はアルスが隊長に就任してから誰一人戦場で脱落した者はいない。それほど第四騎士団に回されて来る任務は過酷で悪辣なものが多かった。というのも、第四騎士団を構成している人間が関係しているのだろう。第四騎士団には平民出の騎士が多く、貴族でも末端の使えぬと判断された者。他にも様々な事情から入団した者が雑多にいるのが第四騎士団なのだ。

そして、その隊長として齢十三歳で就任させられたアルスにも複雑な事情があるのだろうと、副隊長や隊員達は思っていた。自分達よりも若い、まだ子供と言っても良い年齢で科せられた過酷な任務に当初は誰もが反抗心を抱くより同情的であった。
だが、それでもアルスの瞳は逆境に負ける事無く力強く前を見据えていた。

『俺が隊長になったからにはもう誰一人死なせはしない』

こんな所で、無駄死にはさせないと。アルスは自ら先陣を切り、時には大怪我を負いながらもその宣言を守り続け連戦連勝を上げて来た。
いつしかアルスの存在は死へと向かうしかなかった隊員達にとっての光になり、希望の象徴へと変化していった。今では彼等の尊敬すべき隊長であり、英雄でもあった。
そんなアルスが王宮へと呼び出されたと聞いて平静でいられるほど、隊員達は王宮を信用していない。

「それで、今度はどんな任務ですか」

隊員達を代表して副隊長がアルスに訊く。

「あぁ…どうやら勝ち続けたのがまずかったらしい。陛下は次こそ俺達に死地へ向かえと言ってきた」

死地と言われて、隊員達が想像する場所も一つしかなかったらしく声を揃えてその名を上げた。

「「ヴェルト砦か!」」

「とうとう来ましたか」

副隊長が眉間に皺を寄せて溜め息交じりに呟く。

「だが、今度も負けてやるわけにはいかない。この国の為に捨てる命など俺は持ち合わせていない」

「隊長…」

第四騎士団隊長であるアルスには愛国心など一欠けらもない。それはこの五年共に過ごしてきた隊員ならば誰もが気付いていることだ。むしろその刃を自国に振り下ろす時を待っているかのように感じられる時がある。

「ホルン。ここにはいない隊員達にも出立と戦の準備を入念にするよう伝えておいてくれ」

「はっ」

副隊長であるホルンが敬礼して答える。

「俺は少し部屋で考えたい事がある」

一人にさせてくれてという意味にホルンとその場にいた隊員達はアルスの背を追う事無く見送った。

「さすがの隊長もヴェルト砦への赴任は思う所があるんじゃねぇか」

「俺等もいつまでも隊長にばっか頼ってらんねぇ…いや、むしろ隊長の為に何かしてやれることはねぇのかな」

「何があろうとせめて隊長だけでも戦場から遠ざけられれば…」

「隊長は俺達と違ってまだ若い、今年十七になったばかりだろう?それを死地へ送り出すなんて、陛下も血も涙もない事をするな」



その日の夕方、第四騎士団の兵舎を王宮からの使者だと言う者が訪ねて来て、明日の出立には新たに追加する兵士を共に連れて行く様にとの命令をホルンが受けた。
その者達とはトワイネル城下町の門を抜けた所で落ち合う予定とし、これは死地へと向かう第四騎士団への王太子からのせめてもの餞(はなむけ)であると使者はそう述べて帰った。
その報告を兵舎内にある食堂で聞いたアルスは一段と凍てついた眼差しを浮かべ、吐き捨てる様に言葉を吐いた。

「何が餞か」

王宮から戻ってからというもの何処となく気が立っている様子のアルスに食堂に集まっていた隊員達が困惑した様子で隣にいる仲間と顔を見合わせる。

「隊長。これから向かうのはヴェルト砦です。その前に一つお聞きしても宜しいですか」

そんな隊の雰囲気に気付いて副隊長であるホルンがアルスに一つ伺いを立てる。
自身でも気付いているのだろう、アルスは何も言う事無く頷き返す。

「何だ?」

「王宮からの呼び出しなどこれまでも何度かありましたが、王太子からの使者が来るなど初めてです。隊長と王太子の間に…いえ、隊長はどうして私達の隊に配属されたのですか」

アルスが十三歳にして第四騎士団の隊長に就任した経緯について誰もが知らず、本当は知りたかった。こんな子供がと、その時はどれだけの重荷を背負わされてきたのかと聞けずにいた。だが、それも聞ける機会がまだ何処かにあるだろうと先延ばしにしてきたが、今回の任務は本当にどうなるか分からない。任務の先に聞くべき事だと己の堪が告げていた。
ホルンや隊員達の真剣な眼差しがアルスへと集まる。

「そうだな…砦へ行く前にお前達に話しておく事がある」

巻き込んですまないと、アルスは謝罪の言葉と共に頭を下げた。

「ヴェルト砦への任務はこの隊が勝ち続けていたのも理由の一つだろうが、原因はきっと俺にある」

「どういう事ですか」

ホルンが疑問を投げかけ話の先を促せば、頭を上げたアルスはきっぱりと断言して言った。

「奴らは俺に死んで欲しいのさ」

目的は俺一人。それにお前達を巻き込んでしまったと。アルスは瞼を伏せて言う。

「なんで、隊長が…」

狙われる意味が分からないと、これまで国を守って来た隊長が何故と、明かされた事実に隊員達は混乱する。

「お前達にだから言うが、俺は陛下の数ある側室の中の子だ。そんな俺の存在自体がこの国に取って邪魔になったんだろう。だが、子供を殺すのは忍びないと思った誰かが俺を第四騎士団に入れ、自分の目の届かない所で死んでくれれば儲けものだと考えたんだろうな」

しかし、その誰かの思惑とは裏腹に俺は死ぬことなく、力を付け強くなった。王太子や正妃にとっては尚更、まったく興味は無いが王位継承権を脅かす者として敵認識されたのだ。

「王太子は俺を殺したい、その筆頭だろう。だから足を引っ張る様に連携も取れない新しい兵力を押し付けて寄越した」

アルスは第四騎士団を預かり、国を守る身ながら、その実国からも狙われていたとは非情過ぎる現状に隊員達から怒りの声が上がる。

「何て酷い連中だ。それじゃぁ恩を仇で返してるのと同じじゃないっすか!」

「こんな国、隊長が守る価値は無い!」

自分の為に怒り、共感してくれる隊員達の顔を眺め、アルスはふと表情を崩した。

「それぐらいにしておけ、お前達。王宮の目はどこにあるか分からないからな」

「隊長。隊長はそれでもヴェルト砦に行くつもりですか?」

一人冷静に話を聞いていたホルンが再び問いかける。
アルスは一瞬、遠くを見つめる眼差しをみせ、それから力強く頷いた。

「それでも俺は行かなくてはならない」

 




翌朝、トワイネル城下町を抜けた門の所で落ち合った兵士達は、兵士では無かった。
その身に纏う服は囚人服のそれであり、手足には枷を嵌められていた。ヴェルト砦には、確かに囚人を送る刑が存在するがまさかそれを兵士と偽って寄越すとは想像だにしていなかった。数十名はいるだろう囚人の中には女子供も含まれていた。

「これは…隊長どうしますか」

怯えた様子で武装した第四騎士団を見る囚人達にアルスはまず先に移動に支障が出ると言って足枷を外させた。
それから付いて来るよう、言葉少なに命じた。

「ホルン、次の休憩場所に着いたら手枷も外してやれ」

「いいのですか?」

逃げられるのではと懸念を伝えたホルンにアルスは首を横に振る。

「それならそれで良い。覚悟の無い者に無理強いする気は無い」

それこそ無駄死にだ。トワイネルの城下町に戻らなければ、何処でも好きに暮らしていけるだろう。見た所、重い罪を犯した囚人の様ではない。

その命令通りにホルンが次の休憩先で手枷を外してやり、わざと隙を作れば半分の囚人が逃げ出して行った。残った者は女子供だ。騎士団から追手が掛かることを恐れてか、体力もあまりないのだろう。逆らう気力すら無いようだった。

「お前達はどうして捕まったんだ」

罪状を聞けば、窃盗や国に対する不満を聞かれた事による不敬罪。税金滞納による義務違反。やはりどれもヴェルト砦行きにする程の罪状では無かった。
かといって行き場の無い者をこの場で放置するわけにもいかず、アルスは彼女らをヴェルト砦まで連れて行くことにし、砦の内部で働かせる事とした。
何も剣を手に戦うばかりが戦ではない。人間が常駐する砦には飯炊きや掃除、洗濯などをする人間も必要となって来る。

「ただし、これは一時的な措置だ。落ち着いたら砦から離れてもらう」

休憩場所から再び出立した第四騎士団はその後五日を掛けて、隣国シュリエス皇国との国境沿いに築かれた砦『ヴェルト砦』に着任した。

 

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